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ミニッシュ広報部

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福瀧賢一が語る、ミニッシュでの歴史。

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2018年3月15日に創業50年を迎えた有限会社シューズミニッシュ。

初期は家族経営で会社を運営。

そこに一般応募で入社した社員福瀧賢一

シューズミニッシュで過ごしてきた年月を広報部 真田が全2編に分けてご紹介します。


福瀧 賢一
企画部 福瀧(以下 福)です。よろしくお願いします。
 
 
まずこの会社を知ったきっかけは。(以下 真)

真田貴仁
求人情報誌です。
 
 
それはちょうど転職を?
そうですね、その時は職無しやったんでね、はは。
 
 
もしよければ前職が何か教えてもらえますか。
前職は宝石を売っていました。
 
 
ウエブをやってらっしゃって?
そのウエブっていうのは学生の頃勉強なさっていたのですか?
もともとその高校が工業高校やったんですよね。
工業高校のなかで情報の先生っていうのがいるんですけど。
もともと情報の授業ていうのがあるんですけど、古臭い感じの。
でも先生はその授業やらずに、「これからはネットの時代やあ」っていうんで 結構ネット関係だったりワードとかエクセルだったりっていう授業をガンガンやってくれて。
そのなかでHP作成とかあったんで、それである程度知識つけて専門学校いってっていう流れがあったんで、 それである程度の知識は、ページ作りとかあったんで。
 
 
その専門学校行く前からコンピューターとかご興味あったんでしょうか。
そうですね。ふふふ。機械いじりすきやったんで
 
 
そのときから手先が器用だったんですね。小学生の頃から器用だったんですか?

小学生の頃はずっとゲームやってましたね。
でもまあまあ引きこもりですとりあえず。
全然、運動的なものをしないほうでしたね。
外に出ない、ごっつインドアな(笑)。
外に出るのは釣りぐらいでしたね。
 
 
釣りはやってらしたんですね。
当時、バス釣りが全盛期みたいな感じやったんでそれに乗っかってやってました。
 
 
僕らからしたら手先が器用な方だなと。
壊れたアイフォンも直してあげられるし、色々とものづくりしてらっしゃって、やっぱり手先が器用だなと思います。
たしかプラモデルが凄くお好きでいらっしゃったと思うんですが、いつ頃位から?
小学校くらいん時に、組み立てるだけですけどやってて、専門学校入って、 まだそのプラモをやってるっていう人を見て、なんかちょっと触ってみたいなーのところからネットを見て、 ネットでプラモ売ってる人を見て、自分も作れそうな気がするーっていうのがきっかけですね。 なんか結構歳いってから、二十歳くらいに本格的に作り始めた感じですね。
 
 
なるほどなるほど。ちなみに学生の頃は漫画とかってお読みになられたんですか。
もうずっと、漫画は読んでますね。
 
 
影響あった漫画とかってあるんですか?好きな漫画とかは?
なんか色々読んでるんで。流行りのものは大体もう・・・。
流行のものを読みーの、シュールなところでいうたら吉田戦車とか好きですけどね。
 
 
はいはい・・・なるほど。

そしたらちょっと会社入られたきっかけに戻るんですけども、求人募集で知られて、その時面接はどなたがされましたか?

面接は高本やすお現社長です。当時は専務でした。
 
 
面接に来られたのは、旧社屋ですよね?どんな感じの面接だったんですか?
わりかしフランクに、話してくれはったのを覚えてます。
なんかスーツで来られることに対してちょっと緊張する・・・みたいな事言ってました。
私服で来るのが当たり前と思ってたみたいで。
スーツで来たのが2~3人位しかおれへんかったみたいな、感じやったんで、君はスーツで来るんやみたいな。
中には私服で来られた方もいたみたいです。
 
 
その当時の高本成雄前会長(当時社長)と、 今の高本やすお社長(当時専務)と やりとりされて、 決めようと思ったきっかけって あらはるんですか。

ここに来ようと思ったのは条件です。
採用条件のところが書いてある通りやったっていうのが一番大きいとこですね。
採用されてみると、結構嘘つかれるところが多いんで。
 

写真:旧社屋。当時は高本成雄前会長の自宅兼職場だった。
 
どんな条件が書いてあったんですか?
基本給18万から20万。アットホームな職場です。
まあ・・・アットホームというか、家でしたけど。
 
 
(笑) ね、社長、会長が住んでる家ですもんね。
ハイ。家、でしたからね。まあそこに全然、偽りはなくて。
待遇のところ結構、嘘を言われること多かったんですよね。
25万円からとか結構書いてあったりとかして実際行ってみたら「じゃあ15万円からスタートです。」て言われたり。
条件違うやろ!と思ったり。基本給の部分も書いていたとおりでした。
 
 
高本やすお現社長の印象、その時の役職は専務ですけど、覚えてらっしゃいますか?

今とそんなに変わらないですよ。人との接し方とか。
 
 
カッコつけないと言いますか、背伸びなさらないといいますか。
そんな感じやったと思います、はい。
 
 
その面接も、会話のキャッチボールが進んで。
そうですね。で、何やってたの?というのんから始まって、楽天市場の管理になってたと言ったら結構食いつきあった感じがしました。
もともとWEBが出来る子を探してたっていうのが、後から聞いて。
最初はその自社のホームページから始めて、そこが軌道に乗ったら次に楽天に行こかっていう流れで考えてたみたいで。
でもそこでもう楽天経験者が来てしまったから、もうこの時に採ってしまっとこーみたいな感じやったんでしょうね。
 
 
福瀧さんがプラモデル好きとか、たしかロボットお好きだと思うんですけど、そういう面接で、趣味のお話で、息があったみたいな。
あっ、この人も好きなんかみたいなありましたか?
そうですね。なんか最後、ガンダムの話して終わりましたね。(笑)
最後、15分位ガンダムの話して終わったんで。(笑)
 
 
なんか趣味合うかな?みたいな。
なんかそういう話が出来るんやったらちょっとおもろい職場かなとは思いました。
 
 
ご入社されて、他のスタッフは、どんな方が当時いらっしゃったんですか。
その時で、高本やすお現社長、藤尾さん、前会長、前会長の奥さん、で、社長の親戚のお姉さん、同期の人なんかで8人ですね。
親族以外での新しい血、全く関係の無い所から入った1号とか言われるんですけど自分は2号なんで(笑)
 
 
実は・・・?
実は・・・・2号です!
 
 
高本やすお現社長の、高本成雄前会長の自宅じゃないですか。
今まで勤めてらっしゃったのは、事務所=会社っていう感じやったと思うんですけど。
お通いになられてどうでした?
自分としては会社っぽくないなとは。
ほんとに家族経営、の中に入ったんやな、なんかそんな、家族の中に入った感じが強かったですね。
例えばやっぱり近くにワンちゃんが常にいたとかありましたね。
自分は3階にいたんですけど、常に1階で、座布団の上にちょこーんといましたね。
 
 
そん時はわんちゃんは何匹?
4匹いたんですが3匹亡くなって最後の1匹。
ジョイという名のワンちゃんです。
 
 
ジョイが最後の1匹ですか。

話を変えて、WEBをご担当されたんが、2005年11月からオープンする楽天サイト。
ご経験者ということで、どれくらいで仕上げはったんですか?
9月5日に入って、1か月ちょいくらいで。でページ作れて、始めました。
いやぁー、なんかもう「これをあげといて」みたいな感じだったんでそんな急がされてる感じもなく、ちょっとつかみ辛かった感もありましたね。
結構自由にさしてもらってる感じがありました。
 
 
お人柄もあって信用もされてたんでしょう。

多分、ネットショップを開くまでのそのどれくらい時間がかかってどれぐらいの作業量っていうのを、スタッフ皆知らなかったんでしょうね?
自分も1から立ち上げたことなかったんで、どのくらいで仕上げるのが解らなかったです。
それでも1か月程で開けました(笑)
なんか分からないこと全部、大概グーグル先生で調べて。
とりあえずやってみるしかなかった感じでした。
 
 
売上げの希望額は言われてたんですか?
自分らの給料がでるのは、ここからやでっていうラインは決まってました。 当時の資料を持ってきましょうかそれ。 (デスクに取りに行って・・・) これ、13年前くらいの資料ですがまだ持ってるんです。今とは条件変わりますけどね。 コレ、自分ともう1人の2人入れるときに、2人とも持たされたものですね。 そこで多分ボーダーのとこ書いてあると思うんです。 100万円達成したら、やっとトントンみたいな。
 
 
ところで、サイトの名前ってなんなんですか。

この時のサイトの名前はシューズミニッシュ。 もうまんまですね。
 
 
あ、もうシューズミニッシュっていう会社名になっていたんですね?
もうあの犬のロゴとともに。 その時は、なんかねあの、なんも、考えてなかったんですけど、 あとあとそのサイトをね、改めて見直すと、どう考えてもペットショップのようになってる(笑)犬のロゴあって(笑)。 犬の靴売ってるとこなんかなって感じしますね(笑)
 

↑当時のシューズミニッシュのロゴ。
 
2005年のEC業界っていうのは、どんな感じっていうのは覚えてらっしゃいますか。

まだ出したら大概何でも売れる感じでした。 その出始めっちゃ出始めに近い時期。 靴業界そのものもそんなECに出てなかったですよね。
 
 
よそのその靴業界っていうのもまだ、大手さんもどーんと来てなかった?
そうです。

ミニッシュ自身もホームページを持ったばっかりやったんですけど、ホームページ持ってるだけでもスゴイ、っていう時やったんです。
 
 
営業、企画、品管、そこを高本やすお現社長ひとりでやってらっしゃって、 そこに福瀧さんともう一人が来てくれてウェブっていうところに手ださなあかんっていうのは、やっぱり社長の先見の明があったんですね?
もともと社長ご自身でヤフオク始めたっていうのが、あるじゃないですかね。 『人生は物語』の中にも書いてあったと思うんですけど、 一人でまあそれをやって、月200万くらい売り上げでるような感じだったようです。 それもあって、ヤフオクだけじゃなくて、自社のホームページでの販売と楽天での販売でその入口を増やすっていう動きでやってはったとは思います。
 
 
その頃1か月違いで入社した同期スタッフとはどんな関係でらっしゃったんですか?
(笑)(笑)(笑)
なんか向うは兄貴面するけど、こっちはそんな風には思ってない・・・。
 
 
(笑) 弟分みたいな扱いはあったんですね?
実際年齢はどれくらい違うかったんですか?
4個上、やったんかな?
 
 
福瀧さんのこと何て呼んでたんですか。
ふくちゃん。その頃全員が呼び方統一されてました。
 
 
楽天サイト始まったところで、社長と同期の人と3人でどんな感じでしたか?
この商品出しといてほしいんやーとかそんなんはありましたけど・・・
在庫っていうのがそんなに今ほどなくて。
1階の棚に置いてある奴は出荷してもいいみたいな感じで「商品無かったら作るわー」っていう感じでした。
今ならかなり大事みたいな感じになるんですけど、その当時ってサンプルを作るのに中村さんとか高本成雄前会長とかサーッて裁断や、ミシンや、針やって、底も結構スッと入って出来上がってました。
 
 
その売上目標100万が、2006年7月に初めて達成されますが、その時の感想っていうのはどんなお気持ちでらっしゃったのですか。
多分売上100万千円とか2千円とかそんくらいにぎりぎりやったんですよ(笑)
もうようやく売上100万いったなあって。
でもその100万いったからセーフっていうんじゃなくて、その分取れてない部分が大きいんで、これで安心はできひんっていう思いでした。そしてその頃自社ホームページの販売の方も、売上100万いったんですよ。
 
 
えっ?楽天と別で?

はい、別で。両方100万売れて。
で、高本社長がステーキをご馳走してくれるっていう事がありました(笑)
 
 
なるほど。そしてあっという間に100万でステーキ頂いたあと、2007年2月に200万にいかはったと?
はい。売上200万いきました。
 
 
福瀧さんはどんな風に思ってらっしゃったんですか。
なんも覚えてないんです(笑) 全っ然覚えてないです(笑)
 
 
もう一心不乱に・・・。
そうですね・・・。
もう全然この頃、おぼえてないす(笑)。
 
 
そんな実は6月に、実は同僚が失跡されました。
ウェブでは福瀧政権になったとの事。この時、同僚は?
こなくなってしまって(笑)
 
 
どんな思いやったんですか?
複雑やな~(苦笑)
 
 
そんな9月に楽天初の1,000万突破。
8月からずっと売り上げが上がり続けてたんですよね?

はい。そんな中でもう送料無料はやめてください!っていう違うスタッフもいたんです。
 
 
えっ、売れて準備が間に合わないから?
はい、忙しくなって、追っつかへんようなるからやめてくれって。 いやそういうことじゃないやろ、売らなあかんねん!(笑) 楽天の総合ランキングも多分6位とかそんくらいまでいったんか。 なんかそのデイリーランキングっていうのが毎日更新される。 その楽天の中でも、そのなんかまあそっからジャンル分かれていくんですけど、 一応総合って、ほんまに全部まとめてのランキングがあって、その中に入ってくるっていう位の調子良い感じでした。
 
 
2007年の9月に1,000万超えはったんですけど?
出荷も大変でしたね。
そして100万から200万突破したのが7か月ほど、そっから9月に、1,000万という売り上げを超えて。
8月から予約を開始して、多分出荷が10月か11月かぐらいになったんですけど、それまでにたまった注文を全部一気に発送せなあかんかったんですよね。
まあまあ注文順には発送せなあかんので1日で絶対終われへんから、なんかもうその発送の段取りを組んでないと、もう1足買う人もおれば2足買う人もいるし、で、全部パッキンに入ってるじゃないですか。
そやからもうほぼほぼ会社の人総出で、社外で借りている倉庫に行ってパッキン開けて、各カラーサイズ毎に積んでいって(笑)
結構鬼のような出荷でしたね。
 
 
で、2008年、世の中はムートンブーツが流行っていきます。
そうですね。世の中モカシンタイプとムートンタイプが二分している感じでしたね。
正直、自分はそんなに魅力を感じてなかったんです(笑) あんまり好きでもなかった。
ただ、売れてましたけど、なんか結構汚く履いてるイメージあったじゃないですか?
踵をふんでるようなイメージ?ギャルっぽい子がたくさん履いてるてきな、踵踏んで潰して履いてるみたいなイメージがありましたので。
社長が入れるから!みたいな感じのとこはありましたので「じゃあそれなら、売りましょう」みたいな。(笑)
ちなみにこの、8月にムートンブーツもすごく仕入れてこの年末に売ってるんです。
そしてペットショップっぽいっていうのもあったんで、ECサイトの名前を変えました。
ちょっとこじゃれた感じにしたいっていうのがありまして、社名の「シューズミニッシュ」ていう名をそのままというのは響き的に違うと思ったので。
代表の「高本」というのをスペイン語にし「アルト(高)リブロ(本)」としました。
 
 
なるほど。
この、2008年は楽天に力入れすぎて本体のテレビ、カタログ、生産の方がないがしろになってしまった1年やったと、高本やすお現社長が言ってらっしゃいまして。

このころ確かウェブ限定で作った商品けっこう多かったんですね。
なんかそういうのも色々とありまして、難波にある大型商業施設まで撮影に行ったりしたんです。
写真撮って商品ページ作ってとかやりましたね。
 
 
その写真撮影は、福瀧さんが?
はい。その時にいたスタッフも、一緒に撮影に行って。
スーツケースに商品を入れてこうガラガラガラガラして(笑)
 
 
ちなみにこん時のウェブ担当の方を見ると福瀧さんを筆頭に今はいないスタッフ、塙阪さん、アフリーさんというメンバーになっています。
この時凄く、やっぱウェブの担当の方が多くて。本当に楽天に力入れてやってたんですね。人が増えていくのが。
 
この2008年なんですけど、日本製を作成するのを諦めつつ中国製が増えていきましたね。
だけど高本やすお現社長はカヌー※の木型は削ってました。
(※カヌー・・・リゲッタカヌーの前身ブランド)
そして、私に「(カヌー型の履物が)売れない」と言われる(笑) あの型の時はね、そう思いましたね。「これ、いけるんかなあ」って。 結構色んな商品を、高本やすお現社長は立て続けに出してはって。 ばねの着いたサンダルとかもあったんですけど、それを最終500円とかで売ってたりもしてたんで。 そういうのあっての流れでそう思ったんですよね。
 
 
そして2009年4月に、福瀧さんは部署が変わってらっしゃいますね。
そうですね、その当時がもうほぼほぼ自分の仕事を他のメンバーに割り振っていて、自分のすることがほぼほぼ無くなってて。
そん頃は次の試作、ここでメルマガ打って、こんとき送料無料セールをやってとか、そういうのを考えてやってた時期やと思います。
それ位しか仕事が無くなってて結構暇やなあってやってた時期ですね。
撮影に使う小道具的なものを買ってきて作ってて。
その作ってるのを高本やすお現社長が見はって、結構そういう事の段取りができる人なんかなあと思いはったみたいで。
それで社長に「もしあれやったら、サンプル制作、企画側のことせえへんか?」って言われて、「あ、やります」っていう(笑)
二つ返事ですね(笑)全然なんも(悩むことは)なかったすね。
「このままやったらちょっとやばいな、居場所ないな」って感じてました。
 
 
4年間ウェブに勤めてらっしゃって、そうやって部下の方や後輩の方に(仕事を)譲っていって。 その変わった当時、4年間を振り返ってどんな感じでしたか?

自分は、ウェブショップっていう経験があって。
募集・・・当時の採用の内容っていうのがそれ(ウェブショップ)ができる人だった。
それで4年間である程度ちゃんと利益、売り上げが出せるようになって、自分はすることが無くなってたんで(笑)
ある程度の流れというか、土台を作れた段階で移れたんで、それは良いタイミングやったんやろなと思います(笑)
 
 
この企画に転部された時、お幾つになられるんですか。
何歳でしょう?(笑) 2009年やと27歳。
社長がその時34なので、7個したなので27歳ですね。
 

画像:リゲッタ R241 
 
なるほど。そして2009年4月に転部されて、9月にこのR241※が大ヒットして売れると。
(※R241・・・リゲッタR241品番のこと。現在ではリゲッタの人気商品となっている。)

R241が大HITしたのは覚えてますよ。 これを作りはったんは高本やすお現社長なので誕生のとこはあんまり知らないんですけどね。 自分はこん時靴底は作ってないですけど、サンプル作成はやっていました。 展示会とか終わったあとに、販社さん、取引先の所が「サンプルが欲しい」ってまず言わはるんです。 販社さんのところで展示会をするとか、取引先の所が問屋さんの所に置いてお客さんに来てもらって 見てもらうとか、そういう流れがあるんで、「サンプルが欲しい」って言われるんですね。 で、だいたい社長がそれに追われていた(笑) それを代わりに自分が行い、プラスその元々の展示会のサンプル作成を、動き回ってサンプルを作っていく。 社長はもう型紙とかそういうの集中してもらうっていう。 で、まあ最初の方は全然靴底は作ってなかったんです。
 
 
改めてうちの基本でもある商品ですが、どうですか?
(笑)
もう見慣れすぎて (笑)。
これ、ほんとめっちゃ売れてる時って外でも履いてる人相当見ましたからね。
 
 
なるほど。 その時って、履いてる方がいらっしゃったらどんな気持ちでらっしゃったんですか。
「も~ありがとうございま~~~す!!」
 
 
その時この系統(デザイン)のパンプスは、世の中に他社であったりしました?
無かったんじゃないですか。
あっても下駄をコンセプトにしてる「下駄をもう一度」とかは他でなかったと思います。
R241は死ぬほどサンプル作りましたからね。
これもだって2代めでしょ?
初代知ってます?R241の。
ここにつなぎ目が合ったっていう。
なんでなくなったかっていうと、こっから人によってはさけてしまうからっていう。
あ3代目かなこれ。
初代がここに繋ぎ目があって、2台目の時は繋ぎ目が無くなった状態でカウンターの種類が違ったかもしれないです。
いまは熱で変わるカウンターですけど、当時はなんかシンナーつけて形変えるみたいな、そういう感じのカウンターやったような気がします。
 
 
やっぱり開発して行って商品の耐久性もそうやって変えてきはったんですね。
でも見て一発でわからはるのはさすが。
そしてこの年ローリングウォーク訴訟ってなってるんですけども。
憶えてはりますか?

(↑資料を苦笑いしながら当時の訴訟状を見る福瀧)

ありましたね。そん時の訴訟状も持ってますよ。
訴えられたというか注意を受けたときの分をまだ持ってます。
持ってきましょうか?(笑)
(デスクに取りに行って)
ごめんなさいっていう、「下げてくださいね」っていう、気をつけなあかんよっていうのがローリング訴訟ですね。
それが収まってから、その後展示会出た時に斜め前位にその会社さんがおりまして・・・。
会うたこともなんもないんで、ゆったら「履物で使うなよ」っていうことを言われたわけで、ということは向こうも履物作ってるわけじゃないですか。
どんなの作ってるんやろうっていうのをジーって見る(笑) ていうのはありましたね。
 
 
その時2009年で、福瀧さんがIFF※にポルマーマ※で社長と福瀧さんで出展されて。
こん時っていうのは、色々とそういった展示場の設営を考えられるのがお仕事でらっしゃったんですよね?
(※IFF・・・世界最大のファッションイベント。アメリカのMAGIC・PROJECT・COTERIEなどの姉妹展)
(※ポルマーマ・・・レザーやゴム底なども扱う、リゲッタシリーズの姉妹ブランド。)

↑ポルマーマ ロゴ

最初のIFFの時に展示場の設営を考えたのは、全部高本やすお現社長ですね。
1部の展示は自分が作ってたりしたんかな。
ポルマーマのロゴの看板の色付けをしてたんかもしれないです。
この会場で他社さんと高本やすお現社長がっていうのがあったんですよ。
「他社の方来はったわー」って思ったらちょっとして、すぐ近くの柱のところでめっちゃ声を荒げて大喧嘩してはって。
お互いが「高本社長:そんな言い方ありますかー!!」「相手:待て待て待てて高本―!」みたいな感じのがありまして(笑)
それに(お客さんが)わーってなって、お客さん全然入ってけえへんから、自分は「どっかよそでやってくれへんかなあ・・・」と思ってました(笑)
でも高本やすお現社長は結構きついこと、かっとくること、言われはったんやなって。
 
 
「自分はすぐ怒ると真っ赤っ赤になるのでタコのキャラクターやねん」と言い似顔絵とかお描きになられるじゃないですか?
けっこうそういう怒ったところ見てらっしゃったりするんですか?
まあ、自分は結構怒られてますからね。(笑)
業務的な所と、まあそういう態度の所とか(笑)
勿論13年も前から居るんでね(笑)
至らぬ点が多々あるときから。色んな、ね、あるでしょうけど。
でもしかられる、怒られる理由ていうのも結構はっきりしてあって、自分も納得いく所ばっかりなんで。
怒ってるってその時のその感情がきてるのも、根っこからじゃないやろなていうのが、そこは多分演技をしてはるんやろなっていうのを物凄く感じるので。
なんかそれをさせてしまったことに対しては凄くいつも、その時ごとに申し訳ないなあって思ってますね。
 
 
で、この年、どなたかが入社されてますね?
向さんですね。面接は高本やすお現社長がやられました。
自分は「ここで、ここで座っといて下さーい。」て案内をしたくらい。
「じゃあここで面接しますんでおかけください。」って。言うたくらいですね。最初って。
 
 
で、社長と福瀧さんと向さんの3人体制で企画部がはじまったと。
その当時企画部っていうても、別個枠やったんですよ。
今でこそ企画部って部署になってますけど。
社長と向さんがいうたら型紙とかそういう系の仕事で、自分はサンプル作製やってました。
自分から向さんに仕事をちょっとお願いとかしてたら、社長が「そういうんじゃないから」って止められるくらいの感じやったんです。
結構仕事内容もはっきり分かれてて、自分の下っていうわけじゃなかったんです。
 
 
ご担当的にはちょっと同じ部やけど、違うとこを担ってらっしゃるみたいな感じですか?
全然ちゃうかったんですよ。最初からそうと思われがちなんですけど、全然違うんです。
やっぱ今でも全然やってる内容違うんです。
それまでも後輩がたくさんいましたけど、向さんは初めて新入社員として新卒で入りましたよね。
 
 
どんな気持ちで向さんの事をお迎えになられたんですか?

入ってきたなあ、ちゃんと来たなあ位の(笑) 結構多かったんですよ、入ってくるっていうてその日にけえへんっていうパターンが。 来ても3日くらいしたらまたおらんようになったとか。 なので、最初入ってきて印象っていわれてもそんなになくて。
 
 
入ってきたときの向さんはどんな感じだったんですか。
大人しくは、してましたよね。当時はすごい猫かぶってた。 最初から暴れとったらちょっと(笑) (向さん自身も)ずっと半分寝てたって言ってましたけど。(笑) やっぱ最初の頃って結構練習多いんで。
 
 
最初はそうですよね(笑) しおらしいといいますか。 今の企画部新人 隅田さんがやって下さってるような。
そうですそうです。
あればっかりやってると、結構眠くなるんですよね。
この日までにこれだけの量を絶対間に合わさなあかんっていうのとかがあったら、全然違うんですけど、ただただもうひたすら練習といわれるとそんな感じでしたよ。
 
 
なるほど。2010年まで聞けました。有難うございます。

それでは今回はココまでにしましょう。
続きはvol.2で。お楽しみに!

 

 

Vol.2へつづく

全体企画・構成・インタビュアー:真田 貴仁

ライター・カメラマン:中河 有紀子

 

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