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ミニッシュ広報部

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大阪のヤンキーが夢見た“イギリスンドリーム” ~僕とレゲエとリゲッタカヌー~

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まさか僕が

履物を商売にするなんて

思ってもなかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さぁ本日も、広報部のリーダーであり、

ある時はプロデューサー、

またある時は“リゲッタちゃんねる”の編集長の

サナP”がインタビューさせていただきますよ!

 

 

 

 

1974年 大阪市出身。

有限会社シューズミニッシュの一取引先の会社の代表だったが、2012年にブランド設立に伴い、株式会社RegettaCanoeの取締役として入社。

取締役を務める。 2016年よりRegettaCanoeの代表取締役に就任。 10代の大半をイギリスで過ごして培った語学力を活かし、 海外とのパイプ役も担う、

自称、『取り締まられ役』。

 

 

 

 

 

 

 

 

サナP

本日は株式会社“RegettaCanoe”(以下RC)の代表取締役社長『日吉慶三郎』さんに、

生い立ちから会社設立され、現在に至るまでの半生を2回に分けてお送りします。

まずご年齢からお伺いしてもよろしいですか?

 

 

 満43歳。11月で44になります。

 

 

 

 

サナP

<シューズミニッシュ>(以下ミニッシュ)・<RegettaCanoe>(以下RC)に来られて何年目になるんでしょうか?

 

 

 

 本格的に籍を移したのが2013年の9月ですかね。

それまでは前職と掛け持ちでお仕事させていただいてましたね。

 

 

 

 

サナP

2013年の9月からというと、約5年。

色々なメンバーが入社し、店舗展開も拡大し、お気持ち的にはどんな感じでしょうか?

 

 

 まだまだやな~という感じですね(笑)

知ってもらえてるようで、まだまだ認知度が高いとは言えないので、もっともっと知ってもらいたいという想いは強いです。

僕の野望みたいなもんになるんすかね~。

 

 

 

 

サナP

続きまして、学生から社会人になられ、ミニッシュに入社されるまでの事をお伺いさせてください。

まずは、どんな幼少期を過ごされたんでしょうか。

 

 

 幼少の頃… 大阪で生まれて4歳までは大阪で育ちまして、

親父の仕事の兼ね合いでそこからイギリスに渡って、10歳になってからかな?

小学4年生になって一旦日本に帰ってきました。

小学校を卒業するまでは親戚の家に預けられーの、中学1年になって親父と住むようになって、

翌年の中学2年に再び渡英するっていう感じかな。

そして、18歳でイギリスから帰ってきて、そこから数年間岡山に住んでましたね。

 

 

 

サナP

大阪で住んでらっしゃった幼少期の頃って覚えてらっしゃいますか?

 

 

 

 イギリスにいた小学校低学年の頃なんかは記憶に残ってますね。

 

 

 

サナP

ごくごく一般的な関西の男の子が、お父さんの仕事の都合で渡英されたという事ですが、

イギリスに行くまでにみっちり英語を勉強されていたんですか?

 

 

 

 いや、全くですね。ただ、イギリスに渡った初日の日は鮮明に覚えてますわ。

初登校した時の事なんですけど、僕、現地のイングリッシュボーイ達の言葉が全く解らないじゃないすか?

んで、当たり前の事ながら、登校して教室にポンって投げ出されるわけですよ。

周りは、白人・金髪だらけでコミュニケーションが一切取れない、どうしていいかわからんから、

運動場の側の庭に一人歩いてって、半日寝てたんです。

ほんで、放課後オカンが迎えに来てね、帰り際先生に「今日は一日外で寝てたみたいやけど、明日からはちゃんと教室にいましょうね。」

みたいな事を言われたのを覚えてますわ。

 

 

 

サナP

ははははっ(笑)

そうですよね。まだ友達もいないし、声かけてくる人間も少ないやろうし、退屈ですもんね!

 

 

 

 僕イギリス行くって聞いた時に、なんか貴族みたいな人達が住んでるところに行かなあかんねや…みたいな、子供心に不安でいっぱいでしたね。

まぁ行ったら行ったで、「はんっ!こんなとこかい!」なんて思いながら、いつの間にか溶け込んでたって感じですね。

 

 

サナP

周りは英語ばっかりの環境の中で、どうやって打ち解けて行ったんでしょうか?

 

 

 そこはあまり記憶には残ってないんですけど、

向こうってサッカーが盛んじゃないですか?

なので、みんなでサッカーをやってる輪の中に入ってからは自然と仲良くなっていった感じですね。

 

 

サナP

では、英語はどうやって身に付けていったんですか?

 

 

 

完全に環境ですね。当たり前ながらイギリスは英語圏なんで、

英語を喋らざるを得ない環境だったからやと思うんですけど。

この単語は「〇〇」で!みたいな英語の勉強は一切してないです。

 

 

 

サナP

もうフィーリングとニュアンスで適応していったんですね!

 

 

 

 ハイ(笑) 1年もしたら普通に話せるようになってましたね。

 

 

 

 

 

サナP

そんな1度目の渡英から10歳で帰国なさって、大阪に戻ってくるわけですが、

帰国なさる時は、もう現地の友達ができて仲良くなってるので、寂しさなんかもあったんですか?

 

 

 そうですね~寂しさはありましたよ。

でも帰国する理由が、オカンが病気で急遽決まった事なんで…

そこで、オカンの妹さんの家に預けられて、二番目の兄貴は、ばあちゃんとこに預けられて、

一番上の兄貴はイギリスの寮に残ってたんですけど、家族みんなバラバラになって、

小学校卒業するまでは預かってもらってたんですけど、

中学に入るとともに心機一転って感じで九条の親父の所に帰る事になりました。

 

 

 

サナP

九条にご実家があって、3人兄弟の3番目やったんですね。

イギリスに行かれたのもご家族で?

 

 

 

 1回目はそうですね。

 

 

 

 

サナP

2回目はご兄弟3人だけで?

 

 

 

 1番上はもう日本に帰ってましたね。

 

 

 

サナP

では、2回目は2番目のお兄さんとお二人で?

 

 

 

 2番目の兄貴は僕が行く1~2年程前に渡英してたんですけど、

当時の僕は… その…

なんか… ね… ゴニョゴニョゴニョ

 

 

 

サナP

ヤンチャ盛りやったんですね(笑)

 

 

 

 まぁその… お恥ずかしながらそんな感じですね。

なんで、このままやったら具合悪いから兄貴が一緒にイギリス連れて行く!

みたいな感じで2度目のイギリスに行く事になったんですわ。

それが、中学2年の夏休みが終わって新学期が始まる前でしたね。

 

 

↑やんちゃしてる頃の“日吉慶三郎”

 

 

 

 

サナP

中学2年の9月から。

行ったらまた昔の仲間とワイワイしたんじゃないですか?

 

 

 

 いや、2回目は全く違う場所やったんで、寮に入ってまたイチからですわ。

そこでラグビーに出会いました。

 

 

 

サナP

なるほど!そこで初めてラグビーに!

ラグビー自体は、中学2年で始められて、いつまでやってらっしゃったんですか?

 

 

 

 日本に帰るまでやってたんで、18の頃までやってましたね

 

 

↑イギリス留学中の“日吉慶三郎”

 

 

サナP

なるほど。

今はソフトボールの監督をされてらっしゃいますが、野球経験もイギリスで?

 

 

 

 僕、野球経験は中学の時に半年ぐらいクラブチームに入ってたんですけど、

半分おふざけみたいな感じやったんで。

向こうは国家試験的なやつを取るんで、それが終わったら卒業みたいな感じで、

18歳の年末に日本に帰って来ましたね。

 

 

 

サナP

当たり前ですけど全部英語でやり取りされるわけですよね?

 

 

 

 もちろん英語で。

 

 

 

サナP

その間、家ではお父さんと何語でやり取りされてたんですか?

 

 

 

 帰った時は普通に日本語ですよ。

 

 

 

 

サナP

では、18歳で帰国されてからのお仕事は?

 

 

 

 そうですね。

帰ってからは、プラプラして岡山にたどり着いて、

そこからCLUB JAM(クラブ ジャム)ってハコがあったんですけど、

そこに「これ聴いてくれ!」って自作のデモテープを持って行ったんです。

じゃあそこのオーナーの弟さんに気に入っていただけて

「金曜日のこの時間帯やったら空いてるから、一度試してみるか?」って事になって、

そのクラブでバイトさせてもらいながら、夜はDJさせてもらってたんですよ。

そのクラブはオーナーさんが経営、弟さんが現場担当って具合に、ご兄弟で切り盛りしてらっしゃったんですけど、

そこのお母さんが岡山駅前の商店街で焼肉屋をやってはったんすわ。

で、クラブのバイトがない時は、その焼肉屋でバイトさせてもらうみたいに家族ぐるみで良くしていただいたんですわ。

何やかんやで5年ぐらいお世話になってたましたね。

 

 

 

 

サナP

大阪で住んでらっしゃったのに、また何で岡山に行きはる事になったんですか?

 

 

 

 何でなんすかね? 

誰か知り合いがいたとか、アテがあった訳ではなく、

フラフラ転々としてたんですけど…特に岡山は居心地が良かったんで居ついちゃったんでしょうね。

 

 

 

サナP

面白いですね!

それで音楽のお仕事っていうのは、主にDJをしてらっしゃったんですね。

 

 

 

 仕事っていうほど大層なもんとちゃいますよ。

ギャラも何十万ももらってたわけでもないし。

ただその当時ってレゲエが本格的にブームになる前で、来るかけぇへんかって時やったんで、

「オレが岡山でちょっと盛り上げたろかい!」みたいな意気込みはあったかも知んないすね(笑)

 

 

 

↑レゲエDJ時代の“日吉慶三郎”

 

 

 

 

サナP

日吉さんはレコード回す方を?

 

 

 

 もちろんレコードも回してましたし、

他にもレゲエ特有のMCがあるんすけど、両方やってましたね。

レゲエDJでもレコード回すヤツ、マイク持つヤツみたいにレゲエユニットを組んでやったりするんすよ。

 

 

 

サナP

だからLet’sのMCも上手いんですね!普通躊躇しますよ?

レコード回してらっしゃっただけあって、Let’sのMCもさらっと回されますもんね! 

 

 

 

上手いっっ(笑)

 

 

 

 

サナP

その岡山ではDJ以外にも何かされてたんですか?

 

 

 

 

 基本夜の仕事が多かったんですね。

そのクラブ、焼肉屋以外ではラウンジの黒服なんかもやってました。

蝶ネクタイして、ボーイさんみたいな仕事なんですけど、

当時はまだバブリーな時代やったんで建築屋の社長とか来ますやんか? 

んで、盆とか正月になったら寸志いただけたりとか、

仕事終わったらそこのホステスさん朝までアフターしたりとか、

クズみたいな生活してましたね(笑)

 

 

 

サナP

さて、シューズミニッシュとの繋がりからお伺いさせていただきますが、

一番最初に高本さんまたは、シューズミニッシュとの繋がりを教えていただいてもよろしいでしょうか?

 

 

 

 遡ると、岡山に行き、大阪に帰って来て結婚したんですわ。

その当時は浄水器を売ってたんですけど、それがあまり上手くいかなくて、

「もうどうしょうもない」ってなった時に、先輩に誘われ瓦屋さんで10年ぐらい勤めさせてもらったんですけど、

内心「ず~っと長い事できる仕事ではないな~」と感じてた中で、

海外経験で身につけた英語を活かした仕事をしたいと考えてたんですわ。

それで独立を決心しまして、もう一度イギリスに行こうと思ったんですよ。

イギリスにいた学生時代は、休みになったら寮を出ないといけなかったんで、

休みになったらロンドンに行ってたんですけど、そこで知り合った日本の卸スーパーを運営してはった御夫婦を尋ねて、

「雇てくれへんか?」ってお願いしたんですよ。

で、イギリスまで行ってアメリカで言うところのグリーンカードのようなビザをお願いしたんですけど、

イギリスがEUに加盟した後やったんで、就労ビザを簡単に取る事ができへんようになってたんですわ。

そこで一旦諦めて、親父が独立してたんでそこを手伝いながら、

「なんか自分で仕事せぇ」ってのが独立のスタートですわ。

で、あれやこれや扱ってる商材の中の一つがこの“カヌー”やったんすよ。

で、その“カヌー”との出会いは何やと言うと、

とある人物がいてなんですが、僕、鉄関係の商材も扱ってて、

その人はその鉄関係のお取引先の部長さんやったんですわ。

その人とミニッシュの営業マンが知り合いで…

 

 

 

サナP

たまたま接点があって?

 

 

 

 

 そうそう。 

そのツテで、その人がミニッシュに入社して、海外担当を任される事になったんです。

そこで、その人から「日吉さん、実はこんな商材ありまっせ?」と、提案されたのが、“カヌー”とのファーストコンタクトですわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 へぇ~!? なるほど!!!

 

 

 

 

 で、“カヌー”を紹介してもらった後、

僕の知り合いの東大阪にある取引先に、

ミニッシュと繋いだのがビジネスのスタートです。

で、当時の話に戻ると、ミニッシュとビジネスを始めて、

注文を取ってきたまでは良かったんですけど、ここから少しややこしい話になってくるんですよ。

実はその人はミニッシュとは別に個人の会社を経営してて、

その人の会社を経由して品物を仕入れてたんですわ。

僕からしたら、このオッサンおるけど早く社長に会いたいなと思ってたんです。

まぁ筋は通さなあかんなと思って我慢してたんですけど。

なっかなか会わしてくれなくて、ミニッシュに商談は行くんやけど、

全然ミニッシュの社長は出てけぇへんし、

逆に高本さんも、あの黒い外車に乗ってよく会社に来るやつ誰やねん!と思ってたみたいですよ(笑)

そういうすれ違いが数ヶ月続いた後、とある商談でやっと対面させていただく事ができて、

お互い「めっちゃ感じえぇ人やん」って事で、そこからはいい関係を築けるようになっていったんですけどね。

そうこうしてる内に、「アメリカのラスベガスでマジックという全米最大のアパレル展示会に“カヌー”を出展するから手伝いに来て欲しい」という話をいただいて、

その展示会で、本格的に高本さんと距離が縮まりしたね。

 

 

↑アメリカ最大規模のアパレル展示会MAGICに出展中の様子

 

 

サナP

その展示会ではどういったお手伝いをされてたんですか?

 

 

 

 そうですね、

どっちかというと通訳で、あとはちょっとしたアテンドとかですかね。

高本さんはずっと一緒に仕事したいと思ってくださってたみたいなんですけど、

当時は僕も会社持ってたんで、即決ってわけではなかったんですけど、

この段階ではまだ“RC”というブランドは世に存在してなかったんです。

当時はまだ“カヌー”というイチ商品でしたから。

じゃあ何で“RC”が誕生したのか?を話させてもらうと、キッカケにはやっぱりこの展示会なんです。

そこで、ジェームスさんという人物と出会ったんですけど、

このジェームスさんは展示会の4日間毎日ブースに来てくださってたんです。

ブースに訪れた時、“カヌー”を手に取りながら

「商品は面白いけど、化粧箱とか羽はイマイチだね、ブランディングを勉強するともっと良くなるよ!」

というアドバイスをもらったんですよ。

ほんで、そのブランディングをもっと勉強しましょう!という事で、

高本さんともう一人仲間の底屋さんと相談して、

コンサルの方や、デザイナーの方を集めてプロジェクトチームを作ったのが、“RC”立ち上げスタートですわ。

高本さんは“カヌー”のソールについて、底屋の方に相談してる時に、

「日吉さんって人と一緒に仕事したいと思ってるんです」って話をしたそうなんです。

その方は「何で日吉くん?」ってなったそうなんですよ。

というのも、僕、この底屋の人とは靴業界と全く関係のないところで知り合いやったんですわ。

 

 

 

サナP

へぇ~!?

 

 

 

 で、この日吉って何者や?って話になったそうなんですけど(笑)

何やかんやで、3人でやるという事になり、

やるんやったら平等にしたいから会社を立ち上げましょう!という事になったんですわ。

で、その3人で「あーでもないこーでもない」って話を続けて、

数ヶ月後に直営1号店がオープンするまで漕ぎつけたんです。

 

 

 

 

 

 

 

サナP

会社設立の少し後に店舗のオープンされたわけですね?

 

 

 

 会社設立はその年の11月。

ほんで翌4月に店舗オープンを目指して、

ずっとブランディング・ロゴマーク・その他にもどういう風に運営して行くか?

というのを毎週毎週集まって話合いしてましたね。

僕、その間も自分の会社をやってたんですけど、

波もあったし悩んでいた良いタイミングで高本さんから

「一緒にやりましょう」って声かけていただいて、

正直めっちゃ悩んだけど、「ほなやりましょう!」と!

それで、会社も整理して9月から正式にここでお世話になるみたいな。

 

 

 

サナP

なるほど~

なんか昔高本さんがFBに上げてらっしゃった、

髪の短いデスクで笑ってらっしゃった写真を思い出したんですけど、あれは入社して間もない頃ですかね?

 

 

 

↑ドレッドヘアになる前の“日吉慶三郎”

 

 

 

 そうですね、小路の旧本社3階に事務所があった時なんで、

入って間もないですね。“RC”スタートはあの場所ですよ(笑)

その時期はミニッシュの社屋移転も同時進行中で、

その年の忘年会に参加させていただいたんですけど、工事中の現社屋内での開催やったんで、

面白いトコで忘年会やんねんな~なんてビックリしましたね。

社員だけじゃなくて、協力工場の方々も参加くださってたんですけど、

協力工場さんが酔いつぶれて、介抱してたのを覚えてますわ。

僕がまだ前の会社経営してたんで、2013年の話ですわ。

 

 

 

サナP

そんな逸話もありながら(笑)

へ~ドラマがあるなぁ

 

 

 

 

 そうですね~ 

その当時は、まさか僕が履物を商売にするなんて思ってもなかったです。

でも縁は感じてるんですよ。

うちの曾じいちゃんが下駄職人で、

Re:getAに携わる事になって、ルーツの部分ではシンパシーを感じてたりするんす。

 

 

 

サナP

そうなんですか!!

 

 

 

 城東区の市場でずっと下駄作ってたんですよ。

そんなんもあって、海外での案件がきっかけで声かけてもらった時に、

僕がやりたかった海外と携わるっていう意味では「あぁこのタイミングやなぁ」

って運命的なものを感じたりしましたね。

 

 

 

 

サナP

続きまして、“RC”が誕生して紆余曲折あり、

第一回の中期経営計画で社長に任命されますよね?

それは事前に高本さんからお話があって?

 

 

 

 一切無いです… 高本さんはサプライズが好きなんすよ。

でも、ちゃんと考えての発表やと思いますけどね(笑)

 

 

 

サナP

では、社名の株式会社RegettaCanoeというのは当時の高本社長と底屋さん・日吉さんの3人でお考えになられたんですか?

 

 

 

 

 そうですね。当時は週一回以上は集まったんちゃうかな?

で、デザイナーさんや、色々な会社のか方々と一緒にロゴなんかも考えたりしてました。

ロゴマークとか店舗のデザインは佐野さんにデザインしていただいて、

コーポレートカラーどうするとか、店舗の図面どうするとかを話し合ってましたね。

 

 

 

↑企画段階の南船場店イメージ図

 

 

 それとは別で、マーケティング方面のフレームワークをどうするか等、話し合ってましたね。

ただ、ロジカルで機械的なフレームはミニッシュの色とは少し違うのかな?という事に気が付いて、

それ以降は、チームビルディングやホラクラシーみたいな考え方にシフトしていきましたね。

あとは、イタリア展示会の日本ブースにも一緒に出展したりもしてました。

設立前のRCの会議の時は大体高本さんともう一人の方の意見がぶつかって、

僕がなだめてましたね。なんか三角関係見たいな感じ(笑)

まぁ高本さんとその方はガチの靴業界の方なんで、その2人のなかで当時の僕が言える事なんて、

ちょっと視点を変えた業界外の意見をたまに言うぐらいしかできひんかったしね。

 

 

 

サナP

まぁそれが2人にとっては、

「そうも見えるか!」「そんな考えもあるんか!」みたいな感じやったんかな。

次は、ロゴマークが決まった時はどんなお気持ちやったんですか?

 

 

 

 「あぁこれで決まったんや!」みたいな。

ホンマに色々悩んだし、決まった後もやっぱり違うデザインの方がよかったんちゃうか?

なんて考えることもあったけど、やっぱりシンプルで飽きのこないデザインで良かったと思ってますよ。

 

 

 

 

 

サナP

では、社名でもある“RegettaCanoe”のRとCが大文字なのも、当時いろんなパターンがあったんですか?他の名前とか?

 

 

 

 もうブランド名は最初から決まってましたね。

ただ、ロゴマークの書体のパターンは悩み抜きましたよ。

これ既存の書体ではなく、プロの方にデザインしていただいたオリジナルのものなんですよ。

当時はミニッシュとリゲッタカヌーの社屋も離れていて、人数も少なかったんですけど、

今は社屋も一つになり、当時のスタッフ達とは前ほど話する時間を作れなくなってるのが寂しくはあります。

でも、会社が成長していく過程で避けられへん事なんかなぁとは思ってるんですけどね。

 

 

サナP

今日吉さんは主に海外を担当なさってると思いますが、

“RC”の海外の店舗数を教えていただけますか?

 

 

 

 今30店舗ぐらいですね。

今後はインドなんかにも出店できればなと動いている最中です。

 

 

 

サナP

海外の店舗展開で、ご自身の安易な決断により痛い目をみたという話を聞いたことがあるんですが、

お話できるエピソードがあれば教えていただけませんか?

 

 

 

 あぁタイの件ですね!

日本って、問屋さんが何社もありますやん?

各問屋さん毎にお客さんがいて、自分トコのお客さんはきっちりフォローされてるじゃないですか?

日本は沢山ある問屋さん同士、暗黙のルールみたいなものを守ってそれぞれ上手いこと商売されてるんですけど、

タイもその日本のルールで行けるかな?という思い込みの元にディストリビューターさんを2つ置く事を決断したんです。

最初はディストリビューターさん毎に販路を決めてたんですけど、いざ蓋を開けてみると、

片方はルールを守らないし、設定した値段を守らないとか、

片方がもう一方の店舗にスパイみたいな事をしてクレームを入れたりとかのトラブルがポンポン出てきたんで、

止むを得ず片方にはディストリビューターを降りて頂いたという事なんですよ。

 

 

 

 

 

サナP

苦渋の決断をなさったんですね。

 

 

 

 そうなんですけど、そこは僕の判断ミスが招いた事やったんでね…

売上で判断しても雲泥の差があったので、一つに絞ってハンドリングしていこうという事になりました。

その残った方が今もお取り引きのあるジュタポンさんのところなんです。

海外といえば、一番最初に海外とお取り引きさせていただいたのが、先ほどもお話した、

ラスベガスのMAGICで出会った韓国のジェームスさんなんですよ。

 

 

 

サナP

そうなんですね!

 

 

 当時は日本製の商品をそのまま海外へという話やったんですけど、

どうやっても価格の折り合いがつかなかったので、ライセンス契約という形をとったんです。

僕も海外とはそこまで大きい契約をした事がなかったので、

とりあえず言われるがままスタートしたんですけど、紆余曲折あって今は大きい規模とは言えないんですが、

今年が契約の最終年度なんですよ。

なので、来年以降はどうするかというのを少しずつはじめていってるところなんですわ。

ジェームズさんはライセンスを手放したくないと仰ってくださってるんですけど、

そこはビジネスなんで、僕らも利益を出さないといけない。

この前の商談では、ライセンスを手放したとしても応援するよと、柔和な姿勢に変化してきてはいますね。

そんな状況です。

ただ、このジェームスさんは“RC”誕生のキッカケになった人なんで、

僕にとってはすごく大きい存在というか、意味のある出会いやったと思ってます。

 

 

 

 

 

 今後の海外展開については、会社がどうなりたいか?だと思うんです。

現在 “ミニッシュ”  “RC” で年間約20億の売上があります。

それを毎年続けていったとしても、僕らの世代が食うていく分には十分な額だと思うんです。

でも僕らには、“Re:getA”や“RegettaCanoe”というブランドを世界に広めたい、

世界中の人にウチの製品を履いてもらいたいという夢があります。

日本国内も高齢化社会の中、売上を継続しさらに伸ばしていくには、

新しいお客様を増やしていくしかないですよね。

海外にも今以上に進出して行かないとね。

そこは僕の使命と思ってます。

 

 

 

 

 そうなったら、日吉さんの下に外国語が堪能な新しい人材が欲しいですよね?

 

 

 

 

 欲しいですね~。

そんな方がいたらスピードも上がるでしょうね~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全体企画・インタビュアー:サナP

ライター・カメラマン:タイラー

 

 

 

 

 

 

 

 

に続きます。

近日公開予定ですので、お楽しみに♪

 

 

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