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ミニッシュ広報部

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「生野の町のバトンリレー生産。そのカギを握る、職人たちの想い。」<シューズ・スコッチ編> 大滝善彦さん

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親父の商売の店名

「スコッチ」を社名に。


「それはもう自分の中では

すごい思いがある名前なんで」



弊社のブランド、リゲッタやリゲッタカヌーは日本だけではなく海外でも販売されている。その履物を作っているのは、生野の町の靴職人達。弊社の履物作りに携わって下さっている職人は約400名いらっしゃる。その中でも本日は「シューズ・スコッチ」の大滝社長にインタビューを行った。「シューズ・スコッチ」は履物作りの工程の中で、甲の部分と靴底の部品をくっつける「圧着」という工程を担われている。ミニッシュ製品に携わって下さる方々はどんな想いを持っているのか。今回もリゲちゃん編集長真田がインタビューを行った。



▼弊社商品の製造工程・生野の図(高本やすお社長作)▼





インタビュアー真田(以下):よろしくお願いします。


大滝(以下):初めてやから緊張しますが宜しくお願いします。



:まずお伺いしたいのが、大滝社長はこの靴業界では何年ぐらいの歴になられるのでしょうか?


 :僕が22歳で初めて靴業界に入ったんで、大体22年と4ヵ月くらいですね。


:それが初めての就職なんでしょうか?


:いえ、その前にレストランで働いてたんです。高校のクラブ活動を夏に卒業して、その後、知り合いのレストランの厨房でずっと働いてました。


:アルバイトから始まり4年間くらいはレストランに?


:いえ。二十歳ぐらいまでですね。

二十歳の時に、一回喫茶店を経営したんですよ。


:えー!!!


:えー!!!でしょ(笑)。

 でもね、若かったから、その時知り合い達は草野球とかしてて楽しそうにしてるのに僕だけ日曜日も仕事しやなあかんのか、という事に対しての弱さがありました。



:ちなみにそのカフェはなんていう名前やったんですか?


:「ピープル」っていう名前です。


:「ピープル」・・・それにはどういう由来があられるんですか?


:以前母も喫茶店やってたんですけど、母の前に営まれていた方がピープルって名前で喫茶店されてたんですよ。

それをそのまま引き継いでピープルって名前になりました。


:大滝社長がオーナーで、トースト焼いてくれたりコーヒー淹れてくれたりしてたんですね。


:その当時の彼女と一緒にやってました。そして一年足らずでやめました。


:じゃあ。21歳ですね。


:その後の1年は阪神大震災後で就職先も多くなかったんで、友達のお父さんが工務店を営んでたんでそこへ来ないかと声掛けてもらい暫く働きました。



:そうなんですね。じゃあレストランで働いたり、カフェを経営されたり、工務店で手伝いされたり色んな経験されましたね。そこから22歳になられた時にはなんで靴業界に入られたんですか?


:知り合いの方が靴業界の会社で人を探してると言ってて。すごく楽で、いつでも昼ごはん食べていいよ。と、すごい楽そうな内容を聞いたから、というのがきっかけですね。

そろそろ本気で就職しないと、この先不安やしダメやなって思って決めました。


:当時は靴業界で約22年もいらっしゃると思われてましたか?


:いえ。正直すぐ辞めるだろうなと思ってました。当時の上司とも気が合わなくて。ですが社長がすごく僕の事を気にかけてくれはって、社長の事がすごい好きだったから続けれたという部分もあります。

そう思いながら続けていたら、自分が経営者としてやってみたいな、という方向に考えが変わりまして。40歳までになんとか自分で、という目標を持って過ごしました。それからは家に帰ってもずーっと紙型を切る、なんちゃって紙型なんですけど、練習とか、折込の練習などをやってました。



:その当時の上司とは話ししてもいつもキツく返って来るのでコミュニケーションが上手くできなくて。

社長はそんな上司との関係もわかってくれてたので、「ご飯食べにいこか」とか「どないや」といつも声を掛けてくれはって。

僕は本音では上司の事もけなされないし、社長もわかってるから、僕はその辺をおさえて社長について行こうと思って続けていましたね。

そう思いながら続けていたら、自分が経営者としてやってみたいな、という方向に考えが変わりまして。40歳までになんとか自分で、という目標を持って過ごしました。それからは家に帰ってもずーっと紙型を切る、なんちゃって紙型なんですけど、練習とか、折込の練習などをやってました


 その上司も最後は辞めはったんですけど、最後に御礼は言いました。

やっぱりいてくれはったから僕もここまでこれたし。


:そうだったんですね。


:前職の社長の一言が僕にとって...。
そこを辞めるきっかけは、ボタンの掛け違いですかね。

僕もずっと悩んでたんですけど、今こうして辞めて6年半くらいなるんですけど振り返ると感謝しかないですね。

今こうしてミニッシュさんの仕事をある程度スムーズにこなせてるっていうのも前職時で培いました。出荷作業もすれば、外回り、営業、企画もさせてもらい全部させてもらったんで。だから今があるんだなって事を今は本当に思っています。

だから感謝しかないですよね。


:当時の社長って言うのは、大滝社長にとって、どういう存在だったんですか?


:尊敬してるし緊張感もあるし、すごい優しいし気遣いもあります。

従業員が100人超えてくると、やっぱり経営者って毎月の固定費とか考えたら大変で、だからだんだんとピリピリとなってきたっていうのもあります。ただ従業員に対してはすごく優しくて思いやりはありましたね。


:こんな事もありました。僕の結婚式の日のエピソードです。

社長のお父さんである会長が、僕の式の前日か前々日に亡くなられたんですよ。

事前に「もうおやじが危ないから、もしかしたら行かれへんかもしれへん。もし行かれへんかったら悪いな。」と言われてました。

それでも当日来てくれはってね、暗い顔もせず、笑いながらおめでとうって言ってくれたその姿を今でもよく覚えてます。

本当は、来れない立場の中で、やっぱり夫婦で来てくれはったのが僕の中では一番印象に残りますね。


:今、その社長はお元気にされてますか?


:今も同じ会社でバリバリと働いてらっしゃいます。




やっぱりどんなけ才能あってもね、一人では商売ってやっていけない。だから思いやりの気持ちを大切にしてます。一人の力って知れてるんで。

その社長も職場の仕事は絶対止めるな、という方で、僕らも職場さんの仕事を頂く為に頑張ろう、と思って働いてました。

会社のメンバー然り職場さん然り。その人たちを喜ばしてあげたい、笑顔にさせてあげたい、というのは常々考えてます。

自分一人の儲けだけじゃなく職場さんがコンスタントに収入を得てこの人らが生活できる環境に持っていかないと。そんな中で、お互い僕もやって頂いてありがとう、向こうも

仕事頂いてありがとう、っていう関係を目指せるよう心がけてます。


:前職の社長さんのいいなと思う所を参考にされてるんですね。


:そうですね。もし職場さんがミスしたとしても、その人のせいだけじゃなくて、こっちも説明不足やったから「お互い様やで」という風に思ってます。一回やったけどもう一回説明したらこういうトラブルなれへんかったからお互いさまやなと。厳しい所は厳しくせなダメですけど、むやみに傷つけたくないし、お互い思いやり持てたら職場さんも残ってくれる、って僕は思ってるんです。


:なるほど。大滝社長は22歳で靴業界入られて、今はおいくつでらっしゃるんですか?


:44歳ですね。


:という事は6年前なので38歳の時に独立されたと思うんですけど、独立したきっかけを教えて頂けますか?


:前職では、営業部員をまとめるという立場やったんです。この会社に好きだった社長が居てる限りは続けよう思ってたんですけど、さっきも言ったように、その社長とのボタンの掛け違いで。

でもそん中で嫁さんがね、「色々と言葉をかけてくれて、私ら夫婦で共働きで仕事探して働いたらなんとかなるやん。」って言ってくれて。その言葉でスーッと抜けて行動に移しました。せやから今のミニッシュさんの仕事をするという話ももちろん当時は約束も何もありませんでした。二人で共働きしようと思ってました。


:その頃、嫁さんのお母さんがミニッシュさんの履物の「市切」(※市切とは、表地と裏地を張り合わせた生地を、表から見た時に裏地がはみ出ている部分がないように端を切り落とす作業)の仕事をしてたんですよ。

僕には直接言わないんですけど、うちの嫁に、アドバイスしてくれたっていうのがきっかけでミニッシュさんと仕事するようになりました。

前職の時も展示会でいつもミニッシュさんが二つ隣やったんです。

前通ったらちょっとお話さしてもらってた位だったのですが、本当に縁を頂きまして。



:今までは同業社だったんですよね。


:はい。不安がいっぱいやったんですけど、有難い縁のお陰でして。と励ましの言葉を沢山下さって、それが嬉しくてとことんやろうと思いました。そしてその間に引継ぎもしっかり行い、終わらせて退社しました。



:縁とタイミングでそういう流れになったんですね。代表の高本はそういう縁・タイミングをとても大事にしてはります。


:僕が前職在籍中で退職を決めた時、高本社長と他の方と僕と4人で飲もうってことで飲んで。その帰りにカラオケBOXで長渕剛縛りで歌いました。



:とても情を感じ有難かったです。縁とタイミングに本当、感謝しました。


:その頃に奥様と色々と準備をして体制を整えたんですね?


:はい。その時は当然貼り場もなかったんで。


:お顔は広いでしょうから当時の営業力を活かしてやっていこうと?


:そうですね。何が嬉しかったって言ったらその当時の職場さんが「大滝さんに付いていく。」と言ってくれたことです。付いていく、と言ってくれた人が何人かいて下さってそれが一番嬉しかったですね。


:その方々とは今もお付き合いがあるんですか?


:はい、あります。結構ご高齢になってきましたけどね。

だんだんミシンで目が見えにくくなってきたって言うんですけど、それもできる範囲で間違えがない様にゆっくりでいいから、と伝えてます。


:シューズ・スコッチさんの「スコッチ」という社名はどういう意味ですか?


:僕が小学校の時に親父が亡くなったんですが。その親父が梅田の北区曽根崎町でラウンジみたいなのをやってたんですよ。そのお店の名前がスコッチやったんですよ。

僕今でもその当時の親父の名刺をお守りのように財布の中に入れてるんです。

僕当時12歳の中学生だったんですが、自分が商売する時には絶対スコッチって名前にしようとおもったんですよ。

それで当然独立した時に「シューズ・スコッチ」て名前を家族や兄弟、母親に見した時に、母親が泣いてましたね。

スコッチって名前を使ったって事で。

だからそれはもう自分の中ではね、やっぱりすごい想いがある名前なんで。


:お父様の想いもあるのでしっかりやっていかなあかん、と思ってらしたんですね。


:そうですね。おやじはボクシングしてたんですよ。

日本チャンピオンになって雑誌にも載って、そこそこ芸能関係や有名人との付き合いもあって。

実家に行ったら力道山と一緒に写ってる写真もあって。

僕の中では偉大な父親なんです。


:色んな相撲部屋連れてってもらって相撲大阪場所なったら小学生では普通座ったらあかん一番前の砂被りの席に父親の膝の上に座らせてもらったり。人ができない経験を色々させてもらいましたね。


:ご兄弟は?


:4人です。僕は4番目の末っ子です。

兄が四つ上で双子。僕の学年一個上にお姉ちゃんがいます。


:靴業界は社長だけですか?


:僕だけです。

:なるほど。では高本成雄前会長との関係をお伺いしたいのですが?


:すごい優しい方でね。常に僕とすれ違ったら「どないや?仕事もらってるか?頑張ってるか?頼むわな」って言葉を常にくれてはって、とても素敵な会長やったんです。

で、お病気された時に偶然お会いしたのですが「会長具合どうですか?」と聞いたら「全然大丈夫や!心配してくれてありがとう!」と言うてくれはったんです。なんかそれを今思ったら「ああ、強い会長やな、弱い所見せないんやな」て思いました。同業者の方はみんな、「会長は凄い優しい方や。」とよく言いますね。


:僕も色んな方に高本成雄前会長の話をお伺いしますと、優しい人で、人前で怒ったことがない、というエピソードを聞きました。


:そうですね。本当に怒った所見たことないですよね。いつも優しい言葉をかけてくれはる。話しかけられたらほっとする、と言うんですか。そういう会長でしたね。


:今度は高本やすお現社長に関するお話を聞きます。

前職ご在籍の頃、まだ独立の現実味が帯びてない時の大滝社長から見て、ミニッシュや高本やすお現社長はどんな存在でしたか?


:当然独立前から知ってました。僕の知ってるシューズデザイナーは「あいつは違う。」「別格や。」と言ってました。「あいつのセンスはすごいものがある。」と言うことをずっと聞いてたんで、その時点で僕らからしたら一目を置く存在の人で。前職もそこそこ大きい会社ですが、こんなにこの靴業界が段々下引きになっていく中で、前職のような会社ってもう二度と出てこないだろう、この会社で最後だろう、と僕の中では思ってたんですよ。

その中で救世主のように、僕らの同年代の人が現れたことがすごい自分達の励みになったし、まだまだ靴業界いける、って思わせてくれましたね。だからもう別格ですよね。今後僕生きてる中でここまでする人いてはるのんかな?生まれてくる?現れてくれるのかな?と考えます。それ位インパクトありました。



当時展示会でカヌーサンダルって言うのをその当時展示会で並べてはったんですよね。

僕らからしたら「これ売れるのか?ガリバーみたいな大きく見えるのに。」と正直思いました。

でもそんな発想をしたっていうだけでも凄くて、企画力、積極性もあるし。僕らからしたら全然、器が違う。僕も自信過剰なとこがあって「負けてたまるか」という思いも出てくるんですけど、あの人にはかなわんなって(笑)。それだけ勉強されてますしね。色んな事知ってます。あそこまでなろうと思ったら色んな知識がいるなって。

もう別格ですね。周りの靴業界の連中によく言うんですよ。「あの人には勝たれへん」と。自分で作ってるじゃないですか。企画から自分で考えてあそこまでするっていうのはやっぱりなかなか生野ではいてないですね。

通販業界いったりとか、こうやって真田さんが入って色々なメディアに出たり。

今まで生野の履物業界ではなかった行動ですからね。

「そんな発想まででるか」と驚きますね。

僕らの前ではいつも楽しそうに見えます。ピリピリしたところもあるんでしょうけど、その中で余裕を持って接してくれてて凄い勉強なるし、自分もそれを同じ様に心がけてるんですよ。だからみんなに言ってるんです、楽しく仕事しよ。その中で生まれてくるのはすごくいいものができるっていう事を。

モノ作りは真剣やけど、楽しく真剣にする、ということを、教えて貰いました。



:ありがとうございます。今現在、靴業界でこうして手広くされてますが、やりがいに繋がる事や感じる事はありますか?


:やりがいは、仕事頂いてみんなでチームワーク使って仕事できることが本当のやりがいだと思いますね。

難しいもんも色々出てくるけどそれを会社のメンバーと職場さんとが力合わせてずっと仕事して、それをやりきった後に企画の方とか検品場の方から「綺麗ね」って言われるのが一番の嬉しさですね。




:「ここだけは譲られへん!というのは、他の会社よりも良い質のものをあげる。よそができない事をこなして認めてもらう。」そういう思いを持ってます。

基本中の基本で買ってくれる人たちの事を思いながら作ってます。

お客さんには一足一足を丁寧に、という考えを絶対常々考えてます。買う側は悩まれて、考えて、一足だけを買うわけですからね。

僕ら「リゲッタの仕事してます!」と話したら「私も持ってます!履きやすいですよねー!いいですよねー!」という声が返ってきたら当然ながら嬉しいですし、「お前リゲッタの仕事してんのか、すごいなー!」と言われるのも嬉しいし。その辺もやりがいあります。

インポート輸入品が多い中でメイドインジャパンでやっていけるものは何か、という案を探していくって事は大事であって、ほんとに現状厳しいんでしょうけど、そん中でもこうやって活躍しているミニッシュさんはやっぱりすごいなっていう思いがあります。


:あんまりネガティブな事を言いたくないんですけど、輸入品が多い現状で。それはアパレルもそうですが。

今まで中国やったんが東南アジアへ行き、そこで良いものを安く、輸入で仕入れるというのが現状じゃないですか?

そんな中で、どうしていけばメイドインジャパンていうのが売れていくんかな。まあ厳しい状況ですけどね。その中でなんか僕らでもいいアイデアがあればどんどん提案して聞きたいです。


:『生野』とは関係は長いんですか?


:そうですね。生野で産まれ、育ちました。


:生野で生まれ育って44年?


:はい。
職人さんの高齢化っていうのはどの業種でもあることなんですけど、そんな中でほんとに靴作りのやりがいっていうのをね、もっともっと若い子達に伝えれたらなと。

その中でやりがいを持った子達がまた次の世代の子たちも靴作りしたい!

と思えるような町・業界にしていかなあかんなと思うし、そのためには僕らの年代の人達がもっともっと頑張って妥協せず向上心持ってやっていくことが一番大事なんじゃないかなって思ってますけどね。


:職人さんらの高齢化というのは一つの問題でしょうけど、それでも仕事があればなんとかなると僕は思ってるんです。

それに対する設備投資とかしていかないとダメですし、最新の機械を入れて靴を作ってるわけじゃないですか。僕らは2、30年前の機械を使って作ってる。

その辺は段々と利益をプールして、そして設備投資していって、その中で職人さんの早さはないかもしれないですけど、普通のパートさん、若い子らでもできるような設備投資していく、というのが今後の課題かなと。

僕らも靴を作り続けたいですし、色んな靴を出したいですし。


:ミニッシュ社が力になるとしたら?


:まあ僕らも中に入ってないからわからないんですけど、見させてもらってると今までは高本号っていう大きなエンジンがあったから、その大きいエンジン付けて、周りの皆でオール漕いどったかも知りません。目標持ってて知識もあるし積極性もあるし。それを皆がオールからエンジンに変えれるようになったら最強の軍団になるんちゃうかな思ってるんです。



:一番は積極的になる事ですかね。特に職場さんたちに対して。例えば工場にヒントがあるなら企画の方が来てくれれば、僕らはいつでもウェルカムですから。そこで学んだ事を設計やデザインに反映させるとか。職場さん行ったら色んなヒントくれるんですよ。

アドバイスと言うか、おせっかい焼きが生野に多いいですから。

「けえへんのかな、来てくれたらこんなんあるねんけどな」と刺繍屋さんもよく言うんです。そういうのを積極的にやったら「ミニッシュさんの子達きてくれた!」って喜ばれますよ。逆に1時間2時間捕まるくらい話してくれるんで、内弁慶にならずにもっともっと外に出て行けば良い話をもらえるのかな、と僕は思ってますね。


 :ありがとうございます。高本やすお現社長は今まで一人で営業も生産・品質管理もやってきて、それがパートさんも入れて約120人なんです。タカモトゴム工業の時は5人やったのが、まあ色んな意見とか今までなかった意見も出てきて。

今まで出来てたことができなくなったり、通ってたことが通らなくなったり、秩序っていうのが生まれてきて。難しいけどこれが会社・企業なんですね。


:今までないような会社ですから妬みも多いかも知れませんね。

いらん事言う周りの”ガヤ”も多いかも。でもそれって妬みですよね。

高本やすお現社長は「言わせといたらええやん」というスタンスでおるからいいなあと思って。

どっかで残してしまったらそれがストレスになって、次の新しいこと手掛けにくくなったりそういうのが困りますけど。意外と口に出して本人は言わないですけどそんなことほっといたらええねん、って言うタイプやからそれだけ強い意志を持ってる。

「誰が何を言おうと関係ない」ていうのがありますんで。そこは強いんじゃないかな。

今後もやっていけはるって思いますよね。そこには夢がありますよね。


:なるほど。話は変わりますが、作ってきて下さった中で記憶に残ってるとか、こんなエピソードあるよ、という商品はあられます?


:R35ですね。最初に仕事を頂いた商品です。



:最初はね、うまい事行かなかったんですよ吊り込み(※足型に、靴底と甲に当たる生地を合わせて、位置調整をして固定すること。)ミニッシュさんのつま先ってちょっと上がってるじゃないですか。この上りがうまい事吊り込めなくてね。



:うちの社員が、つま先が上がってる靴底を吊り込んだことなくて、生地が破れたり、ずれたりしました。「うわーやっていけんのかなー」ってちょっと不安になりましたよね。

日頃やってない人からしたらちょっと難しかったです。今じゃ慣れましたから大丈夫なんですけど。そう言えば以前のそんな話も、よくするんですよ。はじめはようダメ出しされたなあ言うて(笑)。


:腕、技術の問題なんですか?


:機械の調整とか慣れてなかったからでしょうね。職人からしたら何かちょっと違うんです。記憶に残ってるのははじめにR35やらせてもらったってのがありますね。またこれが凄い売れてるっていうので、ちゃんと仕上げなあかん、そしてはじめて頂いた仕事やし、って思ってやってましたね。


:靴のプロとしてお伺いします。このR35が売れた理由は何だと思われますか?



:まず履き口をゴムで絞ってる事によって、足入れた時に足が付いてくるんですよ。

内にゴムが入ってるから、キツすぎず丁度いい具合に足が付いてフィット感がある。これが良い。

普通の靴ってちょっと遊びがあるじゃないですか。その中でR35はフィット感があって尚且つ一番大事な甲をちゃんとおさえてくれるクロスベルトも付いてて。

おまけにルーペインソールが入ってしっかり踵が固定されるじゃないですか。だから足全体で歩けてるっていう事で爆発的に売れた理由だと思います。


▲ルーペインソール

「Re:getA」ブランドから出ているインソール。踵を包み込む形や土踏まずに沿うように計算された設計で、踵と指の付け根に集中しがちな負担を、足裏とインソールの接地面を増やすことで分散され疲れにくくさせる効果がある。スニーカーやパンプス、ブーツなど色んな履物に使用可能。



:ミニッシュ商品を贔屓目に見なくても売れる要素が詰まってます?


:今、生野のメーカーでバレーシューズって甲のベルトがないのがあるじゃないですか。なんでそれが売れてるんかって事ですよね。やっぱり足にフィットしてるっていうのは足に安心感がある、ストレスがない、という事が一番大きいんじゃないですかね。おまけにもう一つゴムで甲の所をしっかりと抑えてるので、よりよい快適歩行ができるっていうのがあるんじゃないかなって思ってますけどね。

母親も、これ履いたら他の靴履けないって言ってます。

底がすり減るぐらい履いてますからね。R35の大ファンです。


服装はパンツルックが一番合うんでしょうね。年齢層で言うとちょっと高めの方に合う。



:メインターゲットは5~60代だと思ってますね。

ちょっと落ち着いた服装する人の女性の方に合うんじゃないかなと。


:お母様はどんな時履いて下さってますか?


:常に履いてますね。ちょっと近場に出かける時は常に履いてます。

近所行く時はエッグヒールのサンダル履いてます。


▲エッグヒールサンダル CJEG5224

ずっと履いてるから切れかけのやつで(笑)。

もう切れるやん!となるぐらいまで履いてますね。

それくらい「これはいたら他の靴履かれへん」て言いますもん。

やっぱり靴が足にしっかりついてくる、ていうのと、楽っていうの。それは絶対あると思うんですよね。「僕は他の靴もあるやろ?」て言うけど「これが履きやすいねん」とずっと言ってます。

「ルーペインソールもフィットして土踏まずも気持ち良くて。」と。

また旅行の時とか一番いいんじゃないですか?沢山歩くし。母親74歳ですけど、いつもこれ履いて旅行も行きますし。もう歩くときには最適じゃないですか。高本やすお現社長がよく疲れにくい、と言ってますけどもうそのものですよね。ちょっとクッション入ってて、屈曲性もあって。



:履いてる人に聞いても「楽や」言いますもんね。

やっぱり売れる要素がありますもんね。

デザイン性もそうですし履いてて疲れにくい言うのが一番ですよ履物って。

いかにリピート率があるか、という所を見るとね。


:では続いて弊社代表の高本やすおと、プライベートではどんなことご記憶あります?


:本当に二人で飲みに行ったのは2回くらいしか記憶ないですね。あとは他の方も入ってとかですかね。


:プライベートでは接点ありましたか?


:コンサートを一緒に2回程。長渕剛ですよ、当然(笑)。



:当然、ていうのは二人にとっては何かあるんですか?


:高本やすお社長も僕が長渕Onlyという事を知ってますし。それはミニッシュのお世話になっている管理チームの方々もご存知です。

『大滝=長渕剛』みたいな感じなんで。

僕、ファンクラブ入ってるんで「コンサートチケット取れるんですけど今度一緒に行きますか?」って聞いてね。記念的な大きいコンサートで富士山近くやったんです。皆で行きましょうよと言ったら皆さんノリで「行きます!」と言ってくれて。

実際僕がほんまにチケット取った時は「ほんまに行きますの?」と言われてね(笑)。

もうこんなコンサートって一生ないから、という事で行きました。


:どういうコンサートやったんですか?


:オールナイトコンサートで、ライブ自体は9時間半くらいです。場所は富士山。7~8万人は集まったんですかね?

高本社長と他2名の方と前日から前乗りして行きました。

次の日は寝ずにライブのやからとりあえずホテルで仮眠しようと思ったんですけど、興奮して寝れないんですよね。

ライブが始まるのは夜の21時からなんですが、前の昼過ぎに宿泊でとった静岡のホテルを出ました、するとその辺りも既に人で溢れてましたね。


▲当時の静岡駅北ターミナルのバス乗り場の様子



15時くらいのバスにやっと乗れて、着いたら16時過ぎ。


▲バスを降りた後の会場までの道のり


一人30×30㎝のスペースしかないんです。

人が多くてぎゅうぎゅう詰めになってました。



ちっちゃいイスに小さくなって座りながらずっと始まるのを待ってて。

夏やし段々みんな疲れますわね。



:20時半くらいに地元の神輿や太鼓の演出が始まってみんな興奮して。

その後ヘリコプターが上を徘徊し出したから、「もしかして長渕ちゃうんか?」と言い合ってたら、段々と近づいて来まして。

地上に止まった瞬間に降りてくる姿がモニターに映ると長渕の姿で。

みんな大興奮です。やっとの思いで始まったんですから(笑)。もう嬉しくて。



「登場して一発目の歌はジャパンと思う」と高本社長が言ってましたら、本間にジャパンやって。


:「ジャパーン♪」というやつですか。



:ライブは2時間半ちょいくらいでした。普通のコンサートの一回分くらいが第一部です。 

で、休憩が30分やったんですけど結局50分くらいありました。

第2部が始まっても、まだみんな元気あります。




終わる頃段々元気なくなってきます…コンサートの時間が大分経ってますから。

そして第3部くらいから体力的にしんどいです・・・。

車の乗りながら後ろのお客さんまで見れるように長渕が移動してましたが、その頃の僕は体力的に限界で寝てましたね。

自分達のスペースもちっちゃいでしょ、立ちっぱなしでしょ。段々日が明るくなって来た時から最終のクライマックスみたいなものです。〈富士の国〉というメインの歌うたう時には体力的には正直限界で。一番興奮するとこで一木さんが座って寝てましたから(笑)。この曲でもう終わりで丁度いいんちゃうかな、と思ってたらそっからまだ3曲くらいありましたから。



:ライブ終わってクタクタの中、バス乗るまで約5時間くらい待ったんですね。

ライブ9時間あって、途中寝たり休憩あったりして、帰りは4時間5時間あるんですよ。そら大変でしたね。

終わった瞬間は、一秒かかったんかな?と思うくらいに急にコテン!と芝生の上でおちて寝ましたね。

 

▲芝生の上に横たわる大滝社長と高本社長



ただ、高本社長だけは、起きとかなあかんと思って起きてはったらしいです。こんなけ寝るのは気持ちいいんか!と思いました。

バス乗って静岡駅着いたんはライブ終わって12時間後。いい思い出ですけどね。


:長丁場のライブの時間を共に楽しんでミニッシュメンバーは何か言ってましたか?


:こんなライブしんどいだけやったな~って思われたら嫌やけど「ほんま来れて良かった!ええライブやった!大滝さんありがとう!」て言ってくれたんが嬉しくて。大人になっても拳を振り上げて青春のようになかなか経験できない事を楽しめたのが良かったんかなって思いました。


▲ライブ後の晩御飯


:高本やミニッシュスタッフともより絆が固くなったんですね。

で、長渕剛の曲で一番好きなのは?


:〈マイセルフ〉って曲です。




:僕が高校ぐらいの時の曲です。〈涙は大切な君の友達だから〉ていう歌もあるんですよ。落ち込んでる子に、お前は一人じゃないよというメッセージを込めた歌。

その曲があまりにもマイナーすぎて、〈マイセルフ〉と言ってるんですけどね(笑)。

長渕剛の曲ってね、一回聞いただけでは「なんやこんな歌」ってなるんですけど、聞けば聞くほど伝わるものが凄くあるんですよ。







:ある経営されてる先輩から「経営者って365日仕事の事考えてるやろ、そんなん当たり前の事や。自分の夢・目標は、従業員は何もわかれへん。それを押し付けるな。」と言われて「あ、そんなもんなんだ。」とその時感じました。自分では「こうしたい!こうしたいからこうなってみんなで良くなろうや!」という思いがあって。

「それをお前が言ったとしても全然伝われへんからな。それは全然次元は違うからな。」と言われた時に、ちょっとずつやり方変えて行かなあかんな。と。

自分の熱い想いだけ言っても、みんなそんなに浸透しないよって言われたんですね。


:へぇ~そんな事があられたんですね。




:学生の頃、野球を10年やってました。


:10年ですか?10年続けて得たものは?


:高校3年間て野球でなくても子供から大人に成長する一番大切な時期だと思うんですよ。ここで手を抜いてしまったり妥協してしまったら社会人になっても影響与えると思います。

3年間当然補欠で背番号ももらえなかったし、だけど「こいつらが甲子園出るために、レギュラー陣に何ができるか?」とめっちゃ考えたんですよ。んじゃあ毎日200球投げよう、と。それで本間にレギュラー陣が大会で勝ち進んで甲子園出れたら最高やな、って思えたのが得たものですね。

レギュラーなるためにスポーツしてるんじゃなくて、チームワークでこの一つの野球部というものでいかにみんなが協力し合って上を目指すか、というところが大事で。これって仕事にも繋がると思うんですよね。

鬱陶しい上司など色々会社内の関係もあるかもしれないけど、会社のためにどうして行けば伸びて行くか、という事を考える。

自分の立ち位置はどこで、じゃあどうしていこう、というのが重要なんじゃないかな、と。そこが高校で得れたものだなって僕は思ってます。



:大滝社長から今の若い方達に、就職頑張ってる人や新入社員として頑張ってる人に、社会人の先輩として何か言葉を掛けてあげるとすれば?



:仕事はしんどいことが8割9割かもしれないですね。でもその1割の幸せのために、一生懸命頑張ってるわけであって。

スポーツもなんでも、練習ばっかりじゃないですか。その1割から幸せを2割にするには自分の努力。結局は自分次第です。仕事を楽しくできるのも自分次第。一番大切なのは、人に対して思いやりをもつ。自分よがりじゃなくてこの人のお陰で自分がある、という事を忘れずにやる事が一番大事やな。と。どんな仲間と仕事するかで自分が決まってしまいますからね。人に対して思いやりを持つのが一番大切かな、って思います。


:以上で取材を終わりにしたいと思います。ありがとうございます。


:初めての体験でしたが、楽しかったです。ありがとうございました。


~取材を終えて~

生野の町で生まれ育った大滝社長は、とても気さくで長渕剛さんのように熱いハートを持った人でした。周りの関係に助けられながら、楽しく仕事をするという周りへの感謝や思い遣りを大切に考えて仕事に取り組んでらっしゃいました。高本と一緒に靴業界を明るく照らそうと仕事に邁進されている一人。このようなストーリーがあってこその当社商品、と目をやると、様々な生野の職人たちやその家族、生野の町中の方々の笑顔が思い浮かびあがってくるようです。想いが沢山詰まったミニッシュの商品達が今後も愛されるよう、生野の職人達と力を合わせて世界中に楽しく歩く人を増やしていきたいと思います。 


全体企画・構成・インタビュアー:真田 貴仁

ライター・カメラマン:申 理奈



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